Jump to homepage | Jump to content | Jump to Members | Accessibility information | Jump to news | Jump to events |

「チマロン」の形象が導く考え                      

近藤宏

 

博士課程のころから、ダリエンという場所に暮らす先住民エンベラについて研究を進めている。ここでエンベラのことを記すにあたって、私が関心を寄せているひとつの民族誌的形象を手掛かりにしたい。それは、エンベラの人々がチマロン(chimarrón)と呼ぶもので、家畜であれ奴隷であれ、逃亡したものを指すスペイン語の「シマロン(cimarrón)」のことである。語源的にはアラワク語に由来するこの語は、エンベラの生活と彼らが暮らす地域の歴史のいくつかの側面を描き出しているように思われる。

ダリエンはパナマ領土の南東部に位置する地域で、その多くが森に覆われている。その森が隣国のコロンビアにも及ぶのと同じように、国境の両側にまたがってエンベラは暮らしている。エンベラの住む土地のうち国境を越えたコロンビア側の地域はチョコと呼ばれ、パナマにおけるダリエン同様、コロンビア国内の辺境地域として知られている。パナマの独立に伴い設定された国境を越えて、エンベラの生活圏は広がっている。

エンベラは散り散りに移動することで知られている。現在パナマにいるエンベラの祖先にあたる人びとも、スペイン人たちがダリエン-チョコ地域にやって来た16世紀初頭には、チョコにいた。パナマ地峡帯でエンベラの存在が確認されるようになったのは18世紀のことで、19世紀末に地峡帯への移動は増加したと言われている(Torres de Araúz 1966)。一方コロンビアでは、太平洋岸のみならず、山脈部を越えた東部アマゾニア地方の諸県にまでエンベラのコミュニティがある。

こうしたエンベラの分散性の移動は、部分的に、植民地期の経験から説明される。スペイン人たちが到来したばかりのころ、気候や地理的条件、先住民の抵抗などのために、チョコは征服不能な土地であった。抵抗は、蜂起、サボダージュ、植民者の来ない場所への移住などのかたちをとった。17世紀の終わりに金採掘のための植民事業が本格化すると、黒人奴隷制がこの地域に導入された。この植民地支配は、それから逃れる動きも増加させた。黒人にもエンベラにもみられたその動きを、歴史人類学者のパトリシア・バルガスは「シマロン性」と呼んでいる(Vargas 1998)。苦境や他者による不当な支配から逃れる力として理解できる動きである。

エンベラが逃れていった方角は多様で、今日エンベラのあいだに見られる差異の形成に結びついている(コロンビアでは、エンベラは言語や生活様式の異なる四つの民族集団からなるものとされている)。そのひとつがチョコの北へと向かったもので、そこは植民地支配がそれほど及んでいなかった。この集団の末裔が後に、地峡帯にまでたどり着くことになった。植民地期のエンベラの経験は多様でひとつのイメージに帰着させることはできないが(Werner 2000, Vargas 1998)、北へ向かった集団は先のシマロン性と呼ばれる特徴をより帯びているといえる。

シマロンのように動くことはエンベラにとって、フーコーの言う「対抗-導き」のようなものであっただろう。つまり、他者が自らに行使する権力に抗する自身の権力行使である。そのようなかたちをとった力の行使が、ダリエンでのエンベラの暮らしを切り開いたのである。ダリエンで暮らすあるエンベラの男性は、彼らの起源を「チマロン」の末裔として語った。スペイン人が建造した、そこにいる限りは死ぬまで強制労働が課される塔から逃げ出したのが彼らの祖先で、「もしそこから彼らが逃れていなかったら、今日のわれわれはいなかったであろう」と。


既成のコミュニティ間の移動や都市への移住は今も常にあるが、新しい生活空間を開くような移動が、今日でもパナマのエンベラのあいだによく見られるわけではない。形成されたコミュニティの多くは制度的に境界画定された土地のなかに位置し、そうではないコミュニティも似たような条件を求めている。パナマには特別区と呼ばれる行政装置があり、先住民コミュニティをいくつか包摂するような地域に適用されている。特別区はひとつの行政区分で、立法を通して認可された地理的境界と行政組織を伴う。行政組織は、集合的な権利が認められた領土のなかに位置するコミュニティ住民によって構成される。

特別区内のコミュニティでは、他者が境界内の土地を流用しないように、固有のやり方でその境界が引かれている。その作業は定期的に組織される集団によって実施され、「境界の清掃」と呼ばれている。この名前は作業の意義をそのまま示している。掃除をするのは、特別区の境界を他者が目にすることができるように、それとわかるように、それを侵さないようにするためである。境界を掃除しなければ、草木がそれを覆い消し去ってしまう。掃除は、法的権力を日常生活に実現させる活動なのである。この線には、他者の動きを制約する力が期待されている。

こうした状況で、特別区のなかのあるコミュニティでは、かたちの多少異なる(境界)線を引く技法が、農作業の文脈に見られる。こちら場合、大木や小径が、所有区画の境界線のしるしや一部に流用される。線自体は潜在的なかたちであり、風景には直接的に現れない。この線は、その存在を知っている所有者による説明――どの樹木が目印で、どちらにむかって線が伸びているのか――を通してはじめて引かれることになる。ただこの潜在状態にある線が、ひとつの区画を所有物として維持する効果をもち、ほかの所有者の土地利用を制約する。

もうひとつ別のかたちをとる潜在的な線が、同じように他者を制限する効果を発揮している。このコミュニティでは最近、新たな区画を切り開いたのだが、その際、土地を所有物として維持する方法が変わった。所有者たちは新たな区画を、既に手にしている区画の隣に開くようになったのだ。これは「土地利用を秩序づける」ために、また、所有者間のもめごとを避けるために採られた手法である。互いに隣接する区画は、直線のかたちになるように、そしてほかの人の線に交差しないように配置しなければならない。別の所有者の直線の延長上にある利用されていない一帯に手を出すことは、線の所有者を害することになる。その一帯は、線の所有者がこれから使うことになっているからである。そこは、かつての手法が維持されていれば、誰しもが利用できたはずのところである。線を引く方法には違いはあるが、いずれのタイプの潜在的な線も、どこで、だれが何をできるのかを定める効果をともに備えている。

NGOらと共同し、持続可能な森林伐採という商業活動をはじめた別のコミュニティでは、境界線は議論を呼んでいる。伐採計画の導入は、一帯を土地利用の方法によって区分けしなおす「領土調整」という別の持続可能な開発計画を前提にしていた。このプロジェクトはNGOだけでなく政府機構との共同で進められたので、その土地の区分も公的に認可された。伐採活動を管理するには、その活動が許可される場所を定める必要がある。伐採用区を定めることによって、保全用区や農業用区も同時に定められることになった。伐採計画が実施されると、政府機構が利用状態を査察するようになった。それ以降、伐採区画に新たな耕作地を開くことはできない。農業区画から商業目的の伐出もできない。「領土調整」は、できることを配置する線を引く権力のテクノロジーとして作用し、土地の利用を枠にはめている。

加えて、伐採がもたらす財へのアクセスを念頭に、伐採地帯を各コミュニティの領土に分けるための「内部境界」――その境界は公的文書にも、これまでの生活にも存在しないものである――が議論されるようになっている。伐採活動がもたらす財は、皆にいきわたせるにはあまりに少ない。そこで誰が富にアクセスできるのかを定める線が必要になっている。

現代のエンベラの生活には、領土内での動きを制限する境界線が増殖している。これらの線がなすこと(あるいは線とともになされること)は、シマロン性の運動がなすこと――他者がはめこもうとする可能性を撹乱する――とは正反対であるように思われる。だからといって、シマロン性の力がエンベラの生活から消え去ったというわけでもない。現代のエンベラの生活では、シマロンの力は異なる文脈で別の存在のもとに現れている。

エンベラ語ではチマロンは、二つの区別される存在を指す。ひとつは先述の、人間的存在である。もうひとつは動物で、逃げたブタである。エンベラは主に経済的な動機から(消費か売却のため)ブタを飼育するが、技術的な要因によって種豚に限らず逃げ出してしまう余地が常にある。そしてチマロンとは、主人のもとを去り、森で暮らすようになったブタのことである(ペッカリーなど、いわゆるノブタとも区別される)。このチマロンは、飼いブタよりも獰猛かつ巨大になる。チマロンが群れをなして森にいるということはないが、個別に逃げてゆくブタはときおり存在し、そのなかにはチマロンとなるものもいるであろう、ということを、ブタの飼い主たちはブタを完全に管理する能力がないことを認めながら述べていた。ブタはチマロンになる可能性を宿すものである。つまり、従者であることを運命づけられてはいない。

このタイプの主人と「従者」の関係は、シャーマンが精霊を管理するシャーマニズムの実践や、動物の主人となる精霊に関する言説などにも見られる。さまざまな文脈における主人の形象は、従者を管理下に維持する能力を欠いている。エンベラの思考では「従者」 からは動く力を奪えないかのようである。

人間的存在としてのチマロンには、パナマのエンベラの祖先という以外にも、現在を生きる存在としての固有の属性がある。そのチマロンは、正確にはわからないものの、川の上流や森の奥深くで、あまり物品を用いない生活を送り、エンベラよりも背が高く大きな身体をしているといわれる。チマロンはエンベラにとって、先祖であり、またその同じ先祖から袂を分かった同時代の存在なのである。この限りではチマロンは「野蛮人」のように思われるかもしれないが、もう一つ重要な属性がある。チマロンは、商店のある町まで空っぽのカヌーで下っていき、そのカヌーを満たすほどの塩、ケロシン(灯油)、食用油などの商品を持って帰る。チマロンのこの豊かさは眼を引く。というのも、それは黄金からもたらされる豊かさだからである。チマロンは、今ではエンベラが手にすることのできなくなった黄金の所有者だと考えられている。チマロンがこの地域の植民地史に結び付いているのは明白であろう。

チマロンについての言説における黄金は、世界経済の歴史的影響に対するエンベラの何らかの理解を示していないだろうか。エンベラの考えるところでは、自らが黄金を手にすることができないのは、地下世界にあるその鉱脈にアクセスする手段がないためである。黄金はすぐそばにあるはずなのに、それを見つけることができない。つまりは、豊かさに対する自らの逆説的な位置づけ――近くにあるが手が届かない――が語られている。さらに近年では、木材伐採が行なわれた森で金鉱のある地下世界への入り口を守る怪物を見たという噂が聞かれるようになっている。人びとに豊かさをもたらしていないこの経済活動も、かつての黄金の経済に似たものになりかねない、ということなのだろうか。

またチマロンを介してエンベラについて考えていると、コロンビアのエンベラが直面する苦境のほうに目を向けるようにも導かれる。つまり、内戦が引き起こす、コミュニティ全体に及ぶことさえある、強制的移住である。パナマでも、内戦を逃れてコロンビアからやってきたエンベラが新たにコミュニティをつくっている。また、武装勢力の存在が引き起こす苦境には直接的暴力に加えて、飼いブタの強奪なども含めた食糧のアクセスへの制約という面があるとエンベラが証言している(Vía plural 2009, El Espectador 2017)。こういった事実を知ると、先住民に食糧生産者の役割を求めたかつての奴隷制と併せて考えるべきことがあるのではないかと思わずにはいられない。

いずれにしても、シマロンという形象を通して記したいのは、ある民族集団の本質を描くことではなく、エンベラの生が、さまざまな存在のあいだの力の配置と彼らが直面してきたそして直面している具体的状況――奴隷制、金鉱採掘、伐採、家畜飼育、内戦、難民、国内移住、領土調整、資源管理――とともに考える必要があるということである。またこの形象は、歴史的にエンベラの隣人であり続けて来たアフリカ系の人びとをはじめ、エンベラをとりまく多様なひとびとにも目を向けるようにわれわれを導く。シマロンという形象を通してエンベラについて考えることによって、われわれが現在生きており、また生きていくであろう世界について、エンベラと共に考える仕方をつくることに寄与できるかもしれない。

 

Lo que me conduce a pensar la figura del chimarrón

Hiroshi KONDO


En mi carrera doctoral he trabajado con el pueblo indígena Emberá en la región del Darién, Panamá. Aquí me gustaría hablar del pueblo Emberá en términos de una figura etnográfica que desde hace tiempo me ha sido de interés, la figura que los Embera llaman “chimarrón”. Obviamente, este término viene de la palabra en español “cimarrón”, que significa una entidad fugitiva, ya sea animal doméstico o esclavo. La palabra que originalmente deriva de la lengua los Arawak describe algunos aspectos de las vidas de los Emberá y las historias de la región donde trabajo.

El Darién se ubica al sur occidental en el territorio de Panamá, la mayoría de cuyo superficie está cubierto por los bosques que alcanzan a llegar hasta el país limítrofe, Colombia, donde viven los Emberá. La zona del otro lado de la frontera en Colombia se llama Chocó, y se ha caracterizado por su marginalidad frente a otras partes de dicho país, al igual que el Darién en Panamá. La zona donde residen los Embera se extiende a los dos países, cuya frontera nacional fue establecida tras la independencia de la república de Panamá (En adelante voy a usar la palabra “los Emberá” para referirme a los que viven en Panamá y “los Embera” a todos los grupos, incluidos “los Emberá”, esto porque en Colombia la palabra Embera tiene otra entonación, además en términos de auto- identificación los Embera se dividen en cuatro grupos: Embera-katio, Embera-chamí, Embera-dóbida y empera).

Los Embera son conocidos por su movilidad, o habilidad de dispersión. Los antepasados de los actuales Emberá panameños también vivieron en las zonas chocoanas del alto río San Juan, el río Atrato y los afluentes del río Baudó, cuando llegaron ahí los conquistadores a comienzos del siglo XVI. En el siglo XVIII la presencia de los Emberá (entonces llamados como “los Chocó”) fue reconocida en el istmo por los españoles, y hacia finales del siglo XIX se incrementó la migración de los Emberá hacia ahí (cf. Torres de Araúz 1966). Entre tanto, en Colombia, las comunidades de los Embera se establecieron en diversos departamentos del país como Chocó, Antioquia, Santander, Córdoba, Risaralda, Caldas, Valle de Cauca, Cauca, Nariño, Meta, Caquetá y Putumayo (aún me falta mayor conocimiento para explicar cómo fueron estos procesos históricos).

Una parte de estos movimientos de dispersión se explican por sus experiencias durante la época colonial, aunque no sea la única razón. Con la llegada de los conquistadores, durante el primer período colonial, la región Chocó era inconquistable por las condiciones del clima, la geografía y la resistencia de los pueblos originarios. Hubo diversas formas de resistencia: levantamientos, sabotajes y dispersión hacia donde no llegaran los colonizadores. Fue en la última década del siglo XVII que se estableció en la colonia el extractivismo minero de oro en esa zona y trajo consigo la esclavitud de los afrodescendientes. El dominio colonial aumentó el movimiento de escape entre los esclavos afros y los Embera, lo que Patricia Vargas llama “cimarronismo” (Vargas 1998: 297) , el cual podemos entenderlo como un poder de salir del sufrimiento y del dominio injusto a manos de otros.

Las direcciones de huida de los Embera fueron diversas, lo cual contribuyó a la diferenciación entre los Embera hoy en día. Una de estas direcciones fue hacia el norte de Chocó, en donde el dominio colonial era relativamente débil. Los descendientes de este grupo habrían llegado al istmo después. Aunque las experiencias durante la época colonial de los Embera fueron diversas y no pueden reducirse a una imagen típica (cf. Werner 2000, Vargas 1998), el grupo que salió hacia el norte se acerca más a ese carácter de cimarronismo.

Moverse como cimarrón ha sido una forma de “contra-conducir”, en sentido foucauldiano, es decir un ejercicio de poder de uno frente al ejercicio de poder del otro. Esta forma de poder abrió posibilidad a los Emberá para vivir en el Darién. Un hombre emberá del Darién me explicó el origen de ellos como descendientes de los cimarrones, quienes escaparon de una torre hecha por los españoles, donde los cautivos eran forzados a trabajar hasta la muerte. “Si no hubieran salido esos hombres de allí, no estaríamos aquí hoy en día”, me contó.


Hoy en día no es común la movilidad por la cual se han establecido en otros lugares para vivir entre ellos, aunque sí, sigue viéndose la movilidad inter-comunidades o la inmigración a las ciudades. La mayoría de las comunidades se han establecido dentro del territorio demarcado y el resto ha buscado con las condiciones semejantes a las primeras. En Panamá, existe un aparato administrativo llamado “comarca”, que corresponde a las áreas designadas a las comunidades indígenas. La comarca es un tipo de distrito administrativo con su propia limitación geográfica y cuerpos administrativos, los cuales son reconocidos por el Estado a través de una ley especial para cada comarca. Los cuerpos administrativos están conformados exclusivamente por personas de las comunidades dentro del área demarcada y se le reconoce el derecho colectivo al pueblo organizado.

En las comunidades de la comarca Emberá-Wounaan, está formada una propia técnica de demarcación. Se organiza periódicamente un trabajo colectivo llamado “limpieza del límite”. Este nombre expresa claramente su objetivo: limpiar la frontera de la comarca para que personas ajenas lo puedan ver, lo sepan y no lo pasen (o que sepan que si pasan deben salir inmediatamente). Si no se limpia el límite, lo cubrirá la vegetación y se desaparecerá en el paisaje. Limpiar es una acción para actualizar el poder de la ley en la vida cotidiana. La línea que aparece en el paisaje demuestra su poder de limitar el movimiento de ajenos.

En de una comunidad de la comarca Emberá y Wounaan, esta técnica de demarcación ha sido adoptada para las límites de parcelas agrícolas, aunque la forma no es la misma. En el contexto agrícola, la demarcación entre los dueños de parcelas se realiza de forma virtual. Se aprovechan árboles grandes o caminos como marcadores del punto de referencia o una parte de los límites. Las líneas de demarcación que rondan una parcela, la cual se ha abierto para la horticultura y donde la vegetación está recubriendo continuamente, no aparecen directamente en el paisaje. Sin embargo, los límites son reconocidos entre los dueños por acuerdo común. Este tipo de línea virtual, que demanda una interpretación del paisaje, tiene el efecto de mantener una parcela como propiedad y limitar su uso por parte de otros dueños.

Hay otra forma de línea virtual, que demuestra igualmente el efecto de restringir el posible uso por otros. Recientemente, se cambió la forma de abrir una nueva parcela y mantenerla como propiedad. Cuando los dueños abren una nueva, lo hacen al lado de las que ya han abierto anteriormente. Este nuevo manejo ha sido adaptado “para ordenar el uso de la tierra” y evitar conflictos entre dueños, según ellos. Las parcelas pegadas una tras otra están colocadas en fila para que se queden ordenadas en forma de línea directa y no se crucen las líneas. Ocupar una zona libre que esté en la extensión de la línea de algún otro dueño se considera una acción de alerta o invasión, ya que esa zona se muestra reservada para el dueño en el futuro. Si se siguiera dando el manejo que tenían anteriormente, los lugares libres estarían disponibles para cualquier persona. Ahora las parcelas se han convertido en una especie de línea virtual, que supuestamente puede extenderse.

En otras comunidades donde se han puesto en marcha los negocios de madera sostenible con la colaboración de ONG, los límites de la zona se hacen más polémicos. La implementación de este proyecto en las comunidades se basó en un proyecto de desarrollo sostenible que estableció la división de las zonas según el uso. Esto se definió como “ordenamiento territorial” y se hizo con la colaboración de una ONG y entidades gubernamentales. Asimismo, los límites de las zonas fueron aprobados por una entidad estatal como principio de uso del territorio. Para controlar el aprovechamiento de la madera, se demarcaron las zonas permitidas como requisito previo y también las zonas para el uso agrícola y la de reserva. La implementación del proyecto de aprovechamiento ha traído consigo la inspección anual por parte de una entidad estatal, lo cual desde entonces ha imposibilitado abrir nuevas parcelas en las zonas registradas para el aprovechamiento de maderas también sacar maderas en motivo de negocio desde zonas agrícola. En este sentido, el “ordenamiento territorial” demuestra su aspecto de tecnología de poder: demarcar la disposición de las posibilidades en ciertas zonas físicas. Además, están dispuestos “los límites internos”, que supuestamente dividan la zona de aprovechamiento a los territorios de cada comunidad y sobre los cuales no hay ningún documento oficial, ni habían existidos antes como costumbre. El nuevo negocio de madera es tan pequeño que no alcanza a beneficiar a todas las comunidades y lleva a la invención de límites internos para ordenar las posibilidades para acceder al beneficio.


En la vida emberá contemporánea, se multiplican los límites que restringen la movilidad en el territorio. Lo que hacen los límites (o hacen con los límites) es inverso a la movilidad del cimarronismo, que es la posibilidad de liberarse de un marco social de la posibilidad de él mismo demarcada por otro. Sin embargo, esto no significa que el poder del cimarronismo se haya disipado en las vidas de los Emberá. En la contemporánea, el poder del cimarrón (o “chimarrón” entre los Emberá) se aparece otra entidad en diferentes contextos.

La palabra chimarrón designa dos entidades distintas. Una es la que mencioné arriba, un tipo de ser humano; otra es un tipo de ser animal, el cerdo fugitivo. Los Emberá practican la cría de cerdo por motivo principalmente económico (consumo y venta), pero debido a ciertas razones técnicas, siempre dejan espacio del escape a los puercos. Chimarrón es el cerdo que se escapa del dueño y vive en selva. Se distingue del saíno (nombre para Tayassu tajacui en Panamá) y el puerco de monte (Tayassu pecarí), animales selváticos. Según los Emberá, el puerco chimarrón es más bravo y grande que el puerco doméstico. Aunque ya no existen puercos cimarrones tantos como formar su colectivo, con frecuencia uno que otro puerco escapa y quizás vivirá como chimarrón, según cuentan varios dueños, admitiendo sus propias capacidades limitadas en controlar los puercos. El cerdo siempre tiene la posibilidad de hacerse chimarrón, al menos temporalmente, es decir que no está predestinado a ser “sujetos” del dueño.

Se detecta la misma relación entre el dueño y “sus sujetos” en la práctica chamánica, en que el chamán está en cargo de los espíritus, y en los discursos míticos sobre el dueño de los animales. Bajo todos los contextos, a la figura del dueño siempre le falta habilidad de mantener a todos los sujetos bajo su control. Según el pensamiento de los Emberá, al parecer nunca podrán privar a los sujetos de su poder de moverse.

El chimarrón como entidad de ser humano tiene sus propios predicativos, aparte de la calidad del antepasado de los Emberá. Se considera que los chimarrones también son seres actuales. Viven a lo alto de un río o en lo profundo de las selvas, aunque no se sabe dónde exactamente, y tienen pocas provisiones y crecen más alto que los Emberá. Chimarrón no sólo como antepasado, sino también como entidad actual y separada de los Emberá. En este sentido, la figura de chimarrón acaso parezca como una persona selvática. No obstante, tiene otro predicativo importante. En ocasiones los chimarrones van por el río abajo en las canoas hasta dónde hay tiendas y regresan en las canoas llenas de mercancía (querosén, aceite, y sal). La riqueza de este personaje nos llama la atención, porque es el oro el que genera la riqueza. Chimarrón se considera como el dueño de oro al que los Emberá ya perdieron acceso. Es obvio que esta figura de chimarrón está vinculada a la historia colonial de esta zona.

La riqueza expresada en forma del oro en los discursos sobre el cimarrón podría entenderse como un análisis por los Emberá sobre los efectos históricos de economía mundial. Los Emberá consideran que los yacimientos de oro se encuentran en un mundo subterráneo y eso les ha impedido encontrarlos. En este sentido, los discursos sobre el chimarrón podrían hablar de su posición paradójica con respecto al oro, la riqueza perdida, ya que está la proximidad y al mismo tiempo, lo inaccesible para ellos. Recientemente en una comunidad donde aprovechan las maderas se ha escuchado una voz que habla sobre un diablo invisible que cuida la entrada secreta a un yacimiento de oro y que aparece donde fueron sacados unos árboles de selva primitiva. Esto indicaría que la nueva economía no les genera beneficios y podría tratarse de una nueva forma de economía del oro...

Pensar en los Embera en términos de cimarrónismo me conduce a mirar otras situaciones que sufren los Embera en Colombia debido a los efectos del conflicto armado y que los fuerza a desplazarse de las comunidades, en ocasiones a la totalidad de sus miembros. La movilidad de los Embera ha sido vinculada al tema complejo hoy en día. Por ejemplo, hay un grupo que llegó recientemente a Panamá como refugiado. De igual forma, los Embera que han expresado su sufrimiento a causa de la presencia armada en las comunidades, por las violaciones directas contra sus miembros y la restricción de alimentos e incluso el robo de cerdos (Vía plural 2009, y articulo de El Espectador). Esto me induce a mirar el régimen de esclavitud que colocó alguna parte de los Embera en el papel de productores alimentarios.

De todos modos, lo que indico con la figura de cimarrón no es describir la esencia de un grupo étnico en sí, sino apuntar a la necesidad de pensar en las vidas de los Embera por disposiciones de poderes por parte de distintos actores y en las situaciones concretas que ellos enfrentaron y continúan enfrentando: la esclavitud, el extractivismo de oro y de madera, el tratamiento de animales domésticos, el conflicto armado, el refugio y el desplazamiento interno, el ordenamiento territorial y el control de uso de recursos, entre otros. Además de eso la misma figura de “cimarrón” me lleva a pensar en los Embera en relación histórica con los afrodescendientes en América Latina. Espero que al mirar la figura del cimarrón, pueda contribuir a abrir caminos para pensar con los Embera para describir algunas perspectivas sobre el mundo en que vivimos, hemos vivido y podríamos vivir.


Bibliografía

Torres de Arauz, Reina 1966 Estudio etnológico e histórico de la cultura Chocó. Centro de Investigaciones Antropológicas de la Universidad de Panamá.

Vargas Sarmiento, Patricia 1998 “Los embera, los waunana y los cuna: Cinco siglos de transformaciones territoriales en la región del Chocó”. En Colombia Pacífico. Leyva Franco, Pablo (ed.), Santafé́ de Bogotá́ pp. 292-309.

Viaplural 2009 Informe Final: Identificación y caracterización socioeconómica, cultural y nutricional del observatorio de la situación de los niños, niñas y de la familias embera en Bogotá.

Werner Cantor, Erik 2000 Ni alquilados, ni vencidos: Los Emberá y la gente negra del Atrato bajo el dominio español. Siglo XVIII. Instituto Colombiano de Antropología e Historia.  

Artículo de periódico

Sánchez Arévalo, Nicolás 2017 La importancia de cesar el fuego en el río San Juan. EL espectador. 17 de septiembre 2017. 18-19.