Betwixt and Between: China and Islam

中華とイスラームのあいだ 奈良雅史 北海道大学   礼拝などができないムスリムがイスラームの宣教活動を担う。こうした現象をいかに理解することができるのか。昨年出版した私の民族誌(奈良雅史2016『現代中国の〈イスラーム運動〉――生きにくさを生きる回族の民族誌』風響社)はフィールドで出会ったこの問いへの私なりの答えである。 私は博士論文を執筆するために回族と呼ばれるムスリム・マイノリティを対象に中国雲南省昆明市において2年間のフィールドワークを行った。回族は主に唐代から元代にかけて中国に移住した外来ムスリムとイスラームに改宗した漢人との通婚の繰り返しにより形成された民族集団とされる人びとである。彼らは中国全土に分散して暮らし、漢語を母語とする。 中国では1978年の改革・開放政策の導入以降、宗教政策の緩和により、宗教が急激に復興してきたとされる。回族社会もその例外ではなく、宣教活動などの宗教活動が活発化した。また、厳格なイスラーム言説もその影響力を拡大し、敬虔さが志向される傾向が強まった。しかし、上述のようにイスラームに関わる活動を担っているのは、必ずしも敬虔なムスリムだけではない。それには改革・開放以降の回族社会の変化が関係している。 回族は上述のように全国に分散して暮らしているが、各地でモスクを中心としたコミュニティを形成してきた。しかし、伝統的な回族コミュニティの居住形態が1980年代以降の都市開発によって維持できなくなった。その結果、漢族との関係が深まるなか、宗教意識が弱体化し、イスラームを実践しなくなるなど、回族の「漢化」が進展してきたとされる。また、回族の漢族との通婚の増加も社会的な問題とされるようになった。 つまり、回族社会には敬虔化と漢化あるいは世俗化の二極化の傾向がみられるのである。それは回族という民族的カテゴリーとムスリムという宗教的カテゴリーの分化として現れる。従来、回族のあいだでは回族とムスリムは不可分なカテゴリーとみなされてきた。しかし、上述のように回族の宗教性における対照的な変化が顕著になってきたことで、特に敬虔な回族のあいだで、「ムスリムであること」が後天的に厳格な宗教実践によって獲得される属性として、血縁によって決まる「回族であること」から区別されるようになってきたのである。 上述の説明を踏まえると、本稿冒頭の私の疑問は、宣教活動に敬虔な回族だけではなく、「漢化」した回族も多く参加しているということにあるといえる。また、ここでは「漢化」した回族に対して批判的な敬虔な回族がなぜ彼らと一緒に活動を行うのかという疑問も浮かんでくるかもしれない。しかし、これらの一見矛盾してみえる現象に「中国でムスリムをすること」の特徴が表れている。 結論を先取りして言えば、敬虔さの度合いの異なる回族が参加可能になのは、回族による宣教活動が宣教だけを行う活動ではないためだ。この宣教活動は、敬虔なムスリム大学生を中心に宗教指導者の支持を受けながら宣教を主要な目的として始められた活動であり、その担い手の多くは大学生である。この活動は調査地において、イスラームの宣教活動と表象され、その参加者や支援者も異口同音に「イスラームの発展のため」などとその活動の目的を口にする。しかし、実践レベルではこの活動は様々な目的を持ったアクターの部分的な利害の共有によりその規模を拡大してきた。例えば、普通教育の普及による民族の振興を目指して活動を経済的に支援する一般信徒や、ムスリムの異性との出会いや娯楽の場を求める大学生などが挙げられる。宣教活動は、このような教義上のイスラームとは直接的には関係しない要素を巻き込むことで、民族運動でもあり、レクリエーション活動でもあるようなものとして展開されてきた。そうすることで矛盾を孕みながらより多くの支援者や参加者を動員し、規模を拡大してきたのだ。 こうした部分的な利害の共有が可能になるのは、本稿のタイトルにあるように彼らが「イスラームと中華のあいだ」にあるためだ。活動を支援する宗教指導者たちは、宣教活動として活動を行いたい。しかし、宣教活動は政府に禁止されているため、表立って宣教活動を行うことには政府から取り締まりを受けるリスクがある。そのため、彼らにとってはこうした取り締まりを回避するために名目的に活動を支援する一般信徒が望む普通教育の普及というプロジェクトを活動に組み込む必要がある。また、活動の担い手が不足しているため、彼らには回族大学生を動員する必要がある。 一方、普通教育の普及による民族の振興を目指す一般信徒にとっては、活動を実現するうえで、参加者の宿泊先などとして活動の拠点となるモスクを中心とした宗教的資源が必要となる。そのため、彼らにとっても宗教指導者らの支援が必要となる。また、調査地において高学歴にあたる大学生を動員することは、彼らの目的に適っている。 また、実際に活動を行う参加者のうち敬虔な回族は、宗教指導者とその目的を共有している。しかし、多くの「漢化」した回族とっては、ムスリムの異性との出会いの機会ともなっている。但し、上述のように伝統的な回族コミュニティが解体した都市部においては、ムスリムの結婚相手を見つけることは難しく、漢族との通婚が社会問題化している。そのため、ムスリムの異性との出会いの確保は、敬虔さの度合いの相違、世代の相違を越えて共有される問題となっている。よって、男女を分けて活動を行いたい宗教指導者や敬虔な参加者たちも宣教活動が異性との出会いの場となることを受け入れる余地があるのだ。 ここから明らかになるのは、ポスト世俗化論において論じられてきたような宗教が再び公的領域で役割を果たすようになってきたといった宗教-世俗の二分法的な枠組みではない(cf. Asad 1996; 2003)。上記の宣教活動は言説レベルでは極めて宗教的な活動とされるが、その一方で実践レベルでは宗教的なものと世俗的なものが矛盾をはらみながらも不可分なかたちで連鎖することで展開されてきた。その意味で、ブルーノ・ラトゥールが自然と社会の関係をトンネルのメタファーで説明したように(Latour 1999: 86)、ここでは宗教から切り離された世俗と世俗から切り離された宗教が相補的に関係しているのではない。上記の宗教指導者や敬虔な回族はイスラームの復興を求めていく過程で、異性との出会いや普通教育の普及という直接的にイスラームに関係しないプロジェクトに関わらざるをえない。一方で、敬虔ではない回族も男女の出会いを求めて行く過程で宗教的なプロジェクトに関わらざるをえないのだ。 中国では宗教に対して厳しい管理統制が行われており、回族のイスラームをめぐる諸活動はたびたび政府からの取り締まりを受けることとなる。しかし、上述のように回族の諸活動は、必ずしも宗教意識の高まりに基づくものではなく、信仰により結束した安定した構造とはならない。そのため、彼らは抵抗などの国家とのポリティクスに向かわず、すぐに中断に追い込まれることとなる。しかし、こうした彼らの諸活動を特徴づける脆弱性は、宗教を制度的に囲い込み管理しようとする国家に対して、活動をすぐに停止し、新たな形式で断続的ながら継続していく可能性を開いている。この点に関しては、WCAAウェブサイトのDéjà Luに近日中にアップロードされる拙論を参照されたい(奈良雅史2015「動きのなかの自律性:現代中国における回族のインフォーマルな宗教活動の事例から」『文化人類学』80(3): 363-385)。 以上のように、私の民族誌では、宗教と世俗をめぐる問題を回族の諸実践を事例に検討することを主要な論点のひとつとしている。中国における「宗教(zongjiao)」は、西洋キリスト教社会において形成された“religion”概念(Asad 1993)が明治期の日本において「宗教(shukyo)」として翻訳されたものが持ち込まれたものである。それは現在の中国共産党による宗教管理制度に反映され、今も回族によるイスラームに関わる諸実践に大きく影響している。私の試みは、中国における「宗教」を日本語へ翻訳することでもあったといえるだろう。そして、それはさらにここで日本語から英語に翻訳される。こうした翻訳の連鎖のなかで生まれる概念のズレとそれをめぐる諸実践から、私は宗教的なもののあり方を考えている。 Betwixt and Between: China and Islam Masashi Nara Hokkaido University Muslims who do not or cannot follow Islamic practices such as worship carry out missionary activities (Da’wa). How is it […]

Resist Muslim stereotypes in Japan from a cultural anthropological perspective

「ムスリム女性」のステレオタイプに文化人類学によって抗うということ 嶺崎寛子(愛知教育大学)   「ムスリム女性」にどんなイメージを我々は持っているだろうか。 言い換えれば、私たちが接する報道やTV、ネットなどの多種多様な情報源は、ムスリムやイスラームをどのように表象し、人々の抱くイスラーム・イメージはそれによってどのように形成されているのだろうか。 ヴェールを被る/被らされている? 女性差別的な宗教を信じる、遅れた世界の受け身な女たち? 家父長制による抑圧? イスラーム世界の女性は現地の男性に虐げられている、という言説は日本でも人口に膾炙している。このような「まなざし」はジェンダー・オリエンタリズムといわれる。イスラームとジェンダーの研究者である著者は、本当にうんざりする位、この手のまなざしに日々出会うし、日々それに煩わされてもいる。大塚和夫や片倉もとこら、文化(社会)人類学の優れた先達の仕事があってもなお、このジェンダー・オリエンタリズムに地道に向き合わざるを得ない状況は変わっていない。このまなざしは、ムスリム女性の実態を知るうえで明らかな障害である。そもそも「ムスリム女性」というのが、時代も地域も無視した超歴史的・超地域的なありえない概念で、この言葉を使うときはいつも、ちょっとめまいがするような気分になる。しかしあえて問う。 そもそも、ムスリム女性とはどんな人たちなのだろうか。彼女たちにとって、ムスリムであることはどんな意味を持つのだろうか。 主体的に女性でありかつムスリムであることは、当事者にとってどういうことか。この問に答えるために、拙著『イスラーム復興とジェンダー――現代エジプト社会を生きる女性たち』(2015年、昭和堂)は書かれた。エジプトでエジプト人家庭に居候させてもらい、女性説教師が主催する女性のためのイスラームの勉強会に出たり、エジプト人女性がウラマー(イスラーム法学者)に電話で寄せた悩み相談に耳を傾けた結果、本書ができた。 理論的には、エジプトのムスリム女性達の宗教実践を描くことを通じて、文化人類学、ジェンダー学、宗教学を相互補完的につなぐ理論枠組の構築をめざした。そして彼女らの多様な声をできるだけそのまま拾うよう、我々の理解できる枠組みに彼女達の声を回収、または翻訳してしまわないよう、心がけた。 「私が大学入学資格試験に失敗したのは、ヴェールを被ってなかったからですか?」「ラマダン中にメッカへ小巡礼に行きたいんですが、子供を置いて小巡礼に行ってもいいでしょうか?」(ちなみにこの問にウラマーはYesと答えた。巡礼には行けるときに行ったほうがいいですよ、夫の許可が出ているんならこの好機を逃してはいけません、と。巡礼は母役割よりも優先順位が高いのである)「夫が生活費をくれません」「夫が礼拝しません」「夫が、私に母と出かけちゃダメだって言うんです」。 実に1319本の電話相談を筆者は聞いた。ムスリム女性たちの悩みから、彼女達の日常世界や、エジプトのジェンダー規範が浮かびあがる。男性ウラマーの回答(これをファトワーという。信徒の質問に答えてイスラーム法学者が都度出す法的見解)も併せて読んでほしい。そこに、ムスリム女性たちのたくさんの、そして多様な姿が、きっと見つかるはずだ。得た回答(ファトワー)を「イスラームではこう定めている。ウラマーがこう言っている!」と、お墨付きとして使って家族や夫と交渉する、たくましくしたたかな女性がいる。息子の性的不品行に悩む母がいる。恋に悩む女性も、母の介護を兄弟に押し付けられた女性も、夫と実母の仲が悪いことに悩む女性もいる。 本書では、彼女たちの等身大の姿と、彼女たちの日常に織り込まれるイスラームの姿を描いた。エジプト女性たちの民族誌として、あるいはファトワーの民族誌としても、読んでいただければ幸いである。 実はこの本は、日本語でしか書き得なかった。電話相談を受けるNPO「イスラーム電話」の主宰者は、英語で論文を発表することを禁じた。それは調査を許可するにあたり、たった一つだけ彼がつけた条件だった。彼は、多様で生き生きとした、その分外聞をはばかるような醜聞やDV事例などをも含む質問群が、欧米でジェンダー・オリエンタリズムの文脈で読まれ、あるいは消費され、イスラーム世界の後進性の象徴として利用されることを恐れたのである。中東と日本に植民地被支配・支配の歴史がなく、歴史的・政治的なしがらみがなかったことがこの調査を可能とした。おかげで拙著も世に出られた。 彼の不安には根拠がある。9.11以降の流動化する世界情勢の只中で、欧米と中東という二項対立的な表象がなされ、それが政治的に利用される現実があるからこその、英語出版拒否だった。彼にその決断をせしめたその文脈をも、本当は私は、本の中で論じるべきだったのかもしれない。 当然ながら、英語で発表される成果が人類学の全てではない。豊穣な人類学の地平は日本語によっても拓きうるし、日本語だからこそできることもある。拙著のように、様々な事情から英語にできない、人類学の成果はまだまだ多くあるはずだ。英語を通じて世の中を見るときには不可視化されてしまう、グローバル言語の外にある豊穣な世界。グローバル言語で書かれていないためにアクセスできる人数が限られるという限界はあっても、いや、あるいは限界があるからこそ、その豊穣さは素晴らしく、得がたい。 非グローバル言語で行われる複数形の人類学の、その豊穣な世界を知るための窓を、私たちは様々なやり方で確保する必要がある。そしてこの多言語ページはまさに、そういう成果を言祝ぐためにこそあるのだろう。お互いの言語での人類学の成果を垣間見あうための、ここはささやかな、しかし偉大な窓なのである。その窓に、書く機会をいただけたことを幸いに思う。 なお、2016年の再訪時に、主催者のS氏は英語版の出版を許可してくださった。英語版をいま鋭意準備中である。言語の非対称性、言語やタームの翻訳不可能性、ジェンダー・オリエンタリズム、中東を取り巻く政治状況などに、母語ではない支配的言語で書くという行為を通じて再びどっぷり向き合うことで、どんな課題や未来が見えてくるのだろうか。その先の地平を楽しみに、翻訳作業と向き合っている。 Resist Muslim stereotypes in Japan from a cultural anthropological perspective Hiroko MINESAKI (Aichi University of Education, Japan)   What kinds of Japanese stereotypes exist of Islam and of Muslim women? In other words, what kinds of […]

Lo que me conduce a pensar la figura del chimarrón

「チマロン」の形象が導く考え 近藤宏   博士課程のころから、ダリエンという場所に暮らす先住民エンベラについて研究を進めている。ここでエンベラのことを記すにあたって、私が関心を寄せているひとつの民族誌的形象を手掛かりにしたい。それは、エンベラの人々がチマロン(chimarrón)と呼ぶもので、家畜であれ奴隷であれ、逃亡したものを指すスペイン語の「シマロン(cimarrón)」のことである。語源的にはアラワク語に由来するこの語は、エンベラの生活と彼らが暮らす地域の歴史のいくつかの側面を描き出しているように思われる。 ダリエンはパナマ領土の南東部に位置する地域で、その多くが森に覆われている。その森が隣国のコロンビアにも及ぶのと同じように、国境の両側にまたがってエンベラは暮らしている。エンベラの住む土地のうち国境を越えたコロンビア側の地域はチョコと呼ばれ、パナマにおけるダリエン同様、コロンビア国内の辺境地域として知られている。パナマの独立に伴い設定された国境を越えて、エンベラの生活圏は広がっている。 エンベラは散り散りに移動することで知られている。現在パナマにいるエンベラの祖先にあたる人びとも、スペイン人たちがダリエン-チョコ地域にやって来た16世紀初頭には、チョコにいた。パナマ地峡帯でエンベラの存在が確認されるようになったのは18世紀のことで、19世紀末に地峡帯への移動は増加したと言われている(Torres de Araúz 1966)。一方コロンビアでは、太平洋岸のみならず、山脈部を越えた東部アマゾニア地方の諸県にまでエンベラのコミュニティがある。 こうしたエンベラの分散性の移動は、部分的に、植民地期の経験から説明される。スペイン人たちが到来したばかりのころ、気候や地理的条件、先住民の抵抗などのために、チョコは征服不能な土地であった。抵抗は、蜂起、サボダージュ、植民者の来ない場所への移住などのかたちをとった。17世紀の終わりに金採掘のための植民事業が本格化すると、黒人奴隷制がこの地域に導入された。この植民地支配は、それから逃れる動きも増加させた。黒人にもエンベラにもみられたその動きを、歴史人類学者のパトリシア・バルガスは「シマロン性」と呼んでいる(Vargas 1998)。苦境や他者による不当な支配から逃れる力として理解できる動きである。 エンベラが逃れていった方角は多様で、今日エンベラのあいだに見られる差異の形成に結びついている(コロンビアでは、エンベラは言語や生活様式の異なる四つの民族集団からなるものとされている)。そのひとつがチョコの北へと向かったもので、そこは植民地支配がそれほど及んでいなかった。この集団の末裔が後に、地峡帯にまでたどり着くことになった。植民地期のエンベラの経験は多様でひとつのイメージに帰着させることはできないが(Werner 2000, Vargas 1998)、北へ向かった集団は先のシマロン性と呼ばれる特徴をより帯びているといえる。 シマロンのように動くことはエンベラにとって、フーコーの言う「対抗-導き」のようなものであっただろう。つまり、他者が自らに行使する権力に抗する自身の権力行使である。そのようなかたちをとった力の行使が、ダリエンでのエンベラの暮らしを切り開いたのである。ダリエンで暮らすあるエンベラの男性は、彼らの起源を「チマロン」の末裔として語った。スペイン人が建造した、そこにいる限りは死ぬまで強制労働が課される塔から逃げ出したのが彼らの祖先で、「もしそこから彼らが逃れていなかったら、今日のわれわれはいなかったであろう」と。 ★ 既成のコミュニティ間の移動や都市への移住は今も常にあるが、新しい生活空間を開くような移動が、今日でもパナマのエンベラのあいだによく見られるわけではない。形成されたコミュニティの多くは制度的に境界画定された土地のなかに位置し、そうではないコミュニティも似たような条件を求めている。パナマには特別区と呼ばれる行政装置があり、先住民コミュニティをいくつか包摂するような地域に適用されている。特別区はひとつの行政区分で、立法を通して認可された地理的境界と行政組織を伴う。行政組織は、集合的な権利が認められた領土のなかに位置するコミュニティ住民によって構成される。 特別区内のコミュニティでは、他者が境界内の土地を流用しないように、固有のやり方でその境界が引かれている。その作業は定期的に組織される集団によって実施され、「境界の清掃」と呼ばれている。この名前は作業の意義をそのまま示している。掃除をするのは、特別区の境界を他者が目にすることができるように、それとわかるように、それを侵さないようにするためである。境界を掃除しなければ、草木がそれを覆い消し去ってしまう。掃除は、法的権力を日常生活に実現させる活動なのである。この線には、他者の動きを制約する力が期待されている。 こうした状況で、特別区のなかのあるコミュニティでは、かたちの多少異なる(境界)線を引く技法が、農作業の文脈に見られる。こちら場合、大木や小径が、所有区画の境界線のしるしや一部に流用される。線自体は潜在的なかたちであり、風景には直接的に現れない。この線は、その存在を知っている所有者による説明――どの樹木が目印で、どちらにむかって線が伸びているのか――を通してはじめて引かれることになる。ただこの潜在状態にある線が、ひとつの区画を所有物として維持する効果をもち、ほかの所有者の土地利用を制約する。 もうひとつ別のかたちをとる潜在的な線が、同じように他者を制限する効果を発揮している。このコミュニティでは最近、新たな区画を切り開いたのだが、その際、土地を所有物として維持する方法が変わった。所有者たちは新たな区画を、既に手にしている区画の隣に開くようになったのだ。これは「土地利用を秩序づける」ために、また、所有者間のもめごとを避けるために採られた手法である。互いに隣接する区画は、直線のかたちになるように、そしてほかの人の線に交差しないように配置しなければならない。別の所有者の直線の延長上にある利用されていない一帯に手を出すことは、線の所有者を害することになる。その一帯は、線の所有者がこれから使うことになっているからである。そこは、かつての手法が維持されていれば、誰しもが利用できたはずのところである。線を引く方法には違いはあるが、いずれのタイプの潜在的な線も、どこで、だれが何をできるのかを定める効果をともに備えている。 NGOらと共同し、持続可能な森林伐採という商業活動をはじめた別のコミュニティでは、境界線は議論を呼んでいる。伐採計画の導入は、一帯を土地利用の方法によって区分けしなおす「領土調整」という別の持続可能な開発計画を前提にしていた。このプロジェクトはNGOだけでなく政府機構との共同で進められたので、その土地の区分も公的に認可された。伐採活動を管理するには、その活動が許可される場所を定める必要がある。伐採用区を定めることによって、保全用区や農業用区も同時に定められることになった。伐採計画が実施されると、政府機構が利用状態を査察するようになった。それ以降、伐採区画に新たな耕作地を開くことはできない。農業区画から商業目的の伐出もできない。「領土調整」は、できることを配置する線を引く権力のテクノロジーとして作用し、土地の利用を枠にはめている。 加えて、伐採がもたらす財へのアクセスを念頭に、伐採地帯を各コミュニティの領土に分けるための「内部境界」――その境界は公的文書にも、これまでの生活にも存在しないものである――が議論されるようになっている。伐採活動がもたらす財は、皆にいきわたせるにはあまりに少ない。そこで誰が富にアクセスできるのかを定める線が必要になっている。 ★ 現代のエンベラの生活には、領土内での動きを制限する境界線が増殖している。これらの線がなすこと(あるいは線とともになされること)は、シマロン性の運動がなすこと――他者がはめこもうとする可能性を撹乱する――とは正反対であるように思われる。だからといって、シマロン性の力がエンベラの生活から消え去ったというわけでもない。現代のエンベラの生活では、シマロンの力は異なる文脈で別の存在のもとに現れている。 エンベラ語ではチマロンは、二つの区別される存在を指す。ひとつは先述の、人間的存在である。もうひとつは動物で、逃げたブタである。エンベラは主に経済的な動機から(消費か売却のため)ブタを飼育するが、技術的な要因によって種豚に限らず逃げ出してしまう余地が常にある。そしてチマロンとは、主人のもとを去り、森で暮らすようになったブタのことである(ペッカリーなど、いわゆるノブタとも区別される)。このチマロンは、飼いブタよりも獰猛かつ巨大になる。チマロンが群れをなして森にいるということはないが、個別に逃げてゆくブタはときおり存在し、そのなかにはチマロンとなるものもいるであろう、ということを、ブタの飼い主たちはブタを完全に管理する能力がないことを認めながら述べていた。ブタはチマロンになる可能性を宿すものである。つまり、従者であることを運命づけられてはいない。 このタイプの主人と「従者」の関係は、シャーマンが精霊を管理するシャーマニズムの実践や、動物の主人となる精霊に関する言説などにも見られる。さまざまな文脈における主人の形象は、従者を管理下に維持する能力を欠いている。エンベラの思考では「従者」 からは動く力を奪えないかのようである。 人間的存在としてのチマロンには、パナマのエンベラの祖先という以外にも、現在を生きる存在としての固有の属性がある。そのチマロンは、正確にはわからないものの、川の上流や森の奥深くで、あまり物品を用いない生活を送り、エンベラよりも背が高く大きな身体をしているといわれる。チマロンはエンベラにとって、先祖であり、またその同じ先祖から袂を分かった同時代の存在なのである。この限りではチマロンは「野蛮人」のように思われるかもしれないが、もう一つ重要な属性がある。チマロンは、商店のある町まで空っぽのカヌーで下っていき、そのカヌーを満たすほどの塩、ケロシン(灯油)、食用油などの商品を持って帰る。チマロンのこの豊かさは眼を引く。というのも、それは黄金からもたらされる豊かさだからである。チマロンは、今ではエンベラが手にすることのできなくなった黄金の所有者だと考えられている。チマロンがこの地域の植民地史に結び付いているのは明白であろう。 チマロンについての言説における黄金は、世界経済の歴史的影響に対するエンベラの何らかの理解を示していないだろうか。エンベラの考えるところでは、自らが黄金を手にすることができないのは、地下世界にあるその鉱脈にアクセスする手段がないためである。黄金はすぐそばにあるはずなのに、それを見つけることができない。つまりは、豊かさに対する自らの逆説的な位置づけ――近くにあるが手が届かない――が語られている。さらに近年では、木材伐採が行なわれた森で金鉱のある地下世界への入り口を守る怪物を見たという噂が聞かれるようになっている。人びとに豊かさをもたらしていないこの経済活動も、かつての黄金の経済に似たものになりかねない、ということなのだろうか。 またチマロンを介してエンベラについて考えていると、コロンビアのエンベラが直面する苦境のほうに目を向けるようにも導かれる。つまり、内戦が引き起こす、コミュニティ全体に及ぶことさえある、強制的移住である。パナマでも、内戦を逃れてコロンビアからやってきたエンベラが新たにコミュニティをつくっている。また、武装勢力の存在が引き起こす苦境には直接的暴力に加えて、飼いブタの強奪なども含めた食糧のアクセスへの制約という面があるとエンベラが証言している(Vía plural 2009, El Espectador 2017)。こういった事実を知ると、先住民に食糧生産者の役割を求めたかつての奴隷制と併せて考えるべきことがあるのではないかと思わずにはいられない。 いずれにしても、シマロンという形象を通して記したいのは、ある民族集団の本質を描くことではなく、エンベラの生が、さまざまな存在のあいだの力の配置と彼らが直面してきたそして直面している具体的状況――奴隷制、金鉱採掘、伐採、家畜飼育、内戦、難民、国内移住、領土調整、資源管理――とともに考える必要があるということである。またこの形象は、歴史的にエンベラの隣人であり続けて来たアフリカ系の人びとをはじめ、エンベラをとりまく多様なひとびとにも目を向けるようにわれわれを導く。シマロンという形象を通してエンベラについて考えることによって、われわれが現在生きており、また生きていくであろう世界について、エンベラと共に考える仕方をつくることに寄与できるかもしれない。 Lo que me conduce a pensar la figura del chimarrón Hiroshi KONDO   En mi carrera doctoral he trabajado […]

Embedding Fair Trade into a Society

フェアトレードを社会のなかに埋め込む 箕曲在弘 東洋大学   イギリスやスイスといった西欧諸国に比べると、日本における「フェアトレード」は際立ってプレゼンスが低い。にもかかわらず、フェアトレードの「交易を通じて貧困を削減する」というコンセプトが社会運動や国際開発に関心を寄せる日本の研究者にとって目新しいものであったことなどから、2000年以降、数々の学際的な研究プロジェクトが誕生した。アジア経済研究所では開発社会学者の佐藤寛が、国立民族学博物館では文化人類学者の鈴木紀が主宰して数年に及ぶ共同研究を行ってきた。一方、京都大学の農学系研究者が中心となったオルタトレード研究会は科学研究費補助金を継続的に受けながら今日まで10年間以上続いている。 こうした日本におけるフェアトレード研究は実践者を巻き込んだ点が特徴的である一方、フェアトレードの受益者である生産者の生活について深く掘り下げた調査研究はほとんど行われてこなかった。もちろん、多くの者がその必要性を認識してはいたものの、長期間、生産者の下でフィールドワークをするという恵まれた機会を得られた者は、上記の共同研究がおこなわれていた期間ではほとんどなかった。こうした中で、文化人類学を専攻する大学院生として、長期間のフィールドワークを敢行しようとしていたわたしは、フェアトレードの生産者への影響を問う調査研究の必要性に気づき、東南アジアのラオスに住むコーヒー生産者のもとでの約1年半のフィールドワークを実施したのである。 * ****** アメリカではサラ・ライオン(2010)がグアテマラのコーヒー生産者を、マーク・モベルグ(2008)がベリーズのバナナ生産者を、サラ・べスキー(2013)がインドの茶プランテーション労働者を、イギリスではピーター・ルチフォード(2007)がコスタリカのコーヒー生産者を対象とした民族誌を次々と刊行してきた。これに比べると日本語におけるフェアトレード関連民族誌の刊行はまったく追いついていない。 このようななかで私は東南アジアのラオスのコーヒー生産者を対象とした民族誌を日本語で刊行した(箕曲 2014)。欧米の研究者が、フェアトレードが盛んなラテンアメリカの生産者を主な対象とする一方、わたしはあえて欧米の研究者にとっては馴染みの薄い東南アジアの生産者を選んだ。それは日本と交易上の関係が強いということ以上に、ラテンアメリカで生まれたフェアトレード認証制度が、異なる地域に導入された場合、いかなる作用をもたらすかを明らかにしたかったからである。 ******* モチ米の栽培が盛んな内陸国のラオスでは、フランス植民地期の1910~20年代に、コーヒーの苗木がフランス人によって南部のボーラヴェーン高原にもたらされた。その後、1975年の社会主義政権樹立以降、農業の集団化が行われた際に広範囲にコーヒー栽培が広まった。その後、1990年代のラオス政府による実質的な焼畑禁止を受けて、同地の農家の主な生業はコーヒー栽培となった。こうした換金作物への依存により、農家は自然環境のリスクに加えて、市場環境のリスクにも対応しなくてはならなくなる。そこで、国際NGOのオックスファムやフランス政府といった援助機関から多額の資金が流入することにより、フェアトレードを含む農村開発が1990年代以降連綿と行われてきた。 当初、わたしはフィールドワークを行う前から、村落社会の独自の権力関係やローカルな商取引慣行があるなかで、「民主的」な協同組合を設立することが、彼らの既得権を脅かすために、さまざまな形で既存の勢力との摩擦を引き起こすだろうと予想していた。この予想はある程度あたり、フィールドにおいて金と権力をめぐるダイナミックな人間模様が明らかになった。 とりわけ興味深かったのは、フェアトレード協同組合に対する仲買人の優位性である。フェアトレードによる取引価格が仲買人のものより高かったとしても、仲買人との取引を止めた農家は一人もいなかった。この理由を探っていくと、仲買人が農家の生活上のニーズに柔軟に対応しながら農家と取引を行っている事実が分かった。農家は1年のうちコーヒーの収穫期である3~4か月の間しかまとまった現金収入を得られない。この間に次の収穫期までに必要なコメや生活必需品をまとめ買いするのである。したがって、多くの農家が次の収穫期の直前くらいにはすべての現金を使い切ってしまうために、この時期に家族内の誰かが大きな病気や怪我をした場合、借金して医療費を賄わねばならなくなる。銀行から容易に融資を受けられない小規模農家は、このような状況に陥ると懇意にしている仲買人に金を借りるのである。この際、仲買人は収穫期に現金を貸与した農家から優先的にコーヒーを受け取る権利を得るのである。この時の金利は月8~10%程度となり、銀行で融資を受ける場合の約7~9倍にも上る。 このような農家と仲買人との取引関係が構築されているために、財政基盤の脆弱な協同組合は、なかなか仲買人に太刀打ちできない。仲買はピックアップトラックと買付資金さえあれば誰でも参入できる商売であり、近年のコーヒー生産量の増加に伴い、仲買人はボーラヴェーン高原のコーヒー生産地においてリゾーム状に広がっている。一方、フェアトレード協同組合は官僚制のように組織が階層化されており、意思決定と資金の流れは仲買人ほど柔軟ではない。この結果、農家は仲買人に毎年、一定量のコーヒーを売り続けるのである。 このように既存の取引のメカニズムのなかにフェアトレードの取引がどのように位置づけられているのかを明らかにするアプローチは、フェアトレードの取引を、その取引が行われている社会的文脈の中に位置づける試みだといえる。 ****** 今日、農産物市場における透明性を確保するために認証や監査をもとめるグローバルな流れのなかで、民族誌を記すことにより発展途上国の生産者が被る課題を詳らかにするという作業は、極めて重要である。フェアトレードはこうした現代的な課題を象徴する運動・制度である。わたしはフェアトレードを社会のなかに埋め込むことにより、こうした運動・制度が孕む論理の限界と可能性を検討するための素材を、関心のある多くの学会内外の人びとに提供することを意図して民族誌を書き上げた。 学会外のアクターと連携し、「市民社会」の創造(と問い直し)に寄与する実践人類学(あるいは応用人類学)の必要性は日本においてもこれまで以上に高まっているものの、日本における実践人類学のプレゼンスは、アメリカに比べるとまだ低い。だが、自ら実践人類学として位置づけているわけではないが、移民や難民、災害、医療、障がい者や高齢者の福祉を対象とした民族誌は日本でもつぎつぎと刊行されており、これらの成果は見方によっては学会内ばかりでなく、学会外へのインパクトも大きいはずである。フェアトレードばかりでなく、こうした市民の関心が高い分野における人類学的な探求は、今日の日本において緒に就いたばかりだといえる。   Embedding Fair Trade into a Society Arihiro Minoo Toyo University Compared with Western countries such as the UK or Switzerland, in Japan, fair trade lacks popularity. Nevertheless, because the concept of alleviating poverty through […]

Practicing Anthropology in Japanese Language in 2017

日本語で人類学をするということ、2017 浜田 明範 関西大学 「自分の言葉で」のなかで、エドゥアルド・レストレポ(Eduardo Restrepo)氏は、「Buenas intenciones y mala conciencia en el campo antropológico trasnacional.」 というスペイン語の記事を書いている。日本語に翻訳するならば、「国際的な人類学における善意とやましさ」とでもなるだろうか。このエッセイでは、「人類学の世界システム」について述べられている。人類学をすることには複数のあり方があるだけでなく、それらの人類学の間には、中心と周辺があるのだという。 確かに、日本語を母語とする者が日本語で人類学を行う場合、それが英語圏の読者に届くには障害があるだろう。とはいえ、このことは日本で人類学が盛んでないということを意味するわけではない。日本文化人類学会が1935年に一巻一号を刊行した学会誌は、現在年に4回出版されているし、年に数冊の民族誌が継続的に日本語で出版されている。著者たちのいく人かはフランス語やスペイン語やポルトガル語やロシア語や中国語などを解するとはいえ、著者たちは、基本的に英語で読んで、現地語で調査をし、日本語で書いてきた。 他方で、日本語で人類学をすることによって、多くの読者を獲得できてこなかったこともまた事実である。海外の人類学者から、「日本語が話せるのであれば日本について調査すればいいのに」と言われたという冗談のような話が日本の人類学者のあいだで話題にのぼることも少なくはなかった。このような状況を打破するために、日本文化人類学会では、1998年よりJapanese Review of Cultural Anthropologyという英文雑誌(http://www.jasca.org/index-e.html)を年に1回のペースで発行してきており、2016年からは年に二回の発行に増やしている。 将来的には、このような言語障壁は、20世紀や21世紀の歴史的拘束とされるかもしれない。すべての人が同意しないかもしれないが、ビッグデータとディープラーニングの発展によって人類学者同志だけでなく、人類学者とフィールドの人々の間にある言語障壁を溶解するだろう。あるいは、その時には、AIが人間よりも賢くなるシンギュラリティが訪れ、人類学が終焉するのかもしれない。しかし、これはSFのような想像に過ぎないし、別のタイプの人類学が生まれることもあろう。 いずれにしても、私たちは、多くの人類学者を招聘し、国際シンポやワークショップを組織してきた。私たちはまた、古典的なマリノフスキーやエヴァンズ=プリチャードから、マリリン・ストラザーン、ヴィヴェイロス・デ・カストロ、エドゥアルド・コーン、アドリアナ・ペトリーナ、フレデリック・ケックなどの最近の著作まで、多数の人類学者の著作を英語だけでなくフランス語やポルトガル語などからも翻訳してきた。だから、日本の人類学が孤立してきたわけではまったくない。これらの実践を通じて、私たちは、異なる伝統の人類学と交流し、それらから学ぶだけではなく、哲学者や歴史学者、社会学者や医師といった異なる学問領域の学者に紹介もしてきた。この点は強調されるべきである。多くの日本の人類学者は英語を読むが、人類学的思考の可能性は人類学に限定されるわけではない。にもかかわらず、他の分野の多くの研究者は人類学を原語で読むことはない(多くの人類学の本が人類学者以外によって翻訳されてきたことも指摘しておく)。そのため、日本語で人類学をすることには独特の意味がある。私たちが、人類学の世界システムについて考える際には、他の分野との関係も考慮すべきだろう。 このような翻訳のメリットは一方向的ではない。日本の人類学者は、哲学、社会学、歴史学、文学、生物学、STSの翻訳からも多くのことを学んできた。日本には、複数の言語からの翻訳の伝統があるので、日本の人類学は脱領域的な傾向を持っている。もちろん、日本の人類学は、日本独自の伝統にも根ざしている。柳田民俗学や哲学の京都学派といった古典的な研究や、京都大学を中心とした霊長類学と生態人類学の長い伝統がそれである。このように、日本の人類学は異なる伝統の独特の配合として理解できる。それが、他の人類学とどのように異なっているのかは、この企画を通じて明らかにしていきたい。 この状況を鑑みて、また、私たちの特徴を明確にするために、私たち(日本における共編者である私と里見龍樹氏と難波美藝氏)は、このスペースで、日本語で書かれた人類学の著作を日本語と英語の両方で紹介することにした。この戦略は従属ではない。私たちは多くの著作を書いてきたし、それは紹介されるに値すると考えているが、日本語だけで書いた記事は日本人にしか読まれない。私たちはこれを望んではいない。このスペースの精神を尊重して、まず日本語を載せ、次に英語を掲載することにする。 ラインナップは未確定ではあるが、記事は主に、最近出版された若手の人類学者の本や記事についての、著者による紹介によって構成される。一連の記事を通して、日本の人類学の豊富さと独自性を紹介できれば幸甚である。   Practicing Anthropology in Japanese Language in 2017 Akinori HAMADA Kansai University In this space “In one’s own terms”, Dr. Eduardo Restrepo contributed an essay titled ‘Buenas intenciones […]

Between Civil Society and Political Society, Between the West and India

市民社会と政治社会のあいだ、西洋とインドのあいだ 田口陽子 一橋大学 ローカルな人類学者がグローバルな人類学界に向けて「自分の言葉で」自分の研究を発信するという企画1に招待されたこの機会に、インドの「市民社会」についての私の研究を少し違う角度から振り返ってみたい。インド系の研究者が大きな貢献をしてきたポストコロニアル研究は、西洋の学問的な制度や言語的な枠組みに依拠せざるをえない状況で思考することの困難と可能性について論じてきた[e.g. Chakrabarty 2000]。そうした研究に魅力を感じてきた私は、西洋の規範的な概念である「市民社会」が、インドの研究者によってどのように議論され、現地の活動家たちによってどのような文脈で用いられ、いかなる政治的な実践を生み出しているのかを研究してきた。ここでは、私の博士論文の概要を紹介したうえで、日本語でこの研究を行ったことについても考えてみたい。 * * * * * 私はインド、ムンバイで市民運動についてフィールドワークを行い、「市民社会と政治社会の間:インド、ムンバイの市民をめぐる運動の人類学」という題目の博士論文を書いた[田口 2016]。私が滞在した2000年代のムンバイでは、都市の美化運動、官民のパートナーシップの推進、反腐敗運動などの活動が盛り上がっていた。これらの運動は、都市のミドルクラスからなる「市民社会(civil society)」の運動だとされていた。 市民社会は、西欧において、好ましくないもの(自然状態、未開、国家など)の反対としての[Kaviraj 2001]、あるいは発展段階を示すものとしての、規範的な概念として成立してきた。こうした性格上、市民社会を人類学の分析概念として用いることには、さまざまな困難がある。特にインドでは、西洋の概念を普遍的な概念として非西洋社会の分析に用いることを批判してきたサバルタン研究の影響力が大きい。例えばパルタ・チャタジーは、市民社会は西洋の啓蒙主義にもとづく自律的な市民の領域であり、インドでは少数のエリートにしか当てはまらないとした。そのうえで、インドで重要なのは、市民ではなく「統治される者」たちが、共同体の論理を活用しながら主権者に対して要求を行う「政治社会(political society)」であると論じた[Chatterjee 2004]。こうした背景にもとづき、近年の市民運動も、ミドルクラスがサバルタンを排除する利己的な運動であると批判されてきた。 このような学術的な論争は、現場の実践と相互に影響を与えあっている。例えば、今日のインドの市民活動家は、自らを政治社会と区別し、「非政治性」を主張しながら活動を展開している。そこで私は、この概念の動きと実践の動きの入り組んだ関係を解明することを目指した。さらには、人々が「市民」として都市空間や他者や自己に介入しながら活動するなかで、異なる文脈からなるイメージが作られていることに注目した。そしてそのイメージが、どのような概念や実践のつながりから成り立っているのかを記述するために、マリリン・ストラザーンの「部分的つながり」[Strathern 2004]と、インドの民族社会学を参考にした。 ストラザーンが部分的つながりのイメージのひとつとするのは、機械と身体がつながって動いているダナ・ハラウェイのサイボーグである。部分的つながりは、異質なものや不釣合いなものが、お互いに部分になることで、ひとつのシステムに包摂されることなく関連しながら生成していく動きを示している。そこでは、立場の異なる部分的な論争が、実践上なんとかつながりながら、しかし相互にずれや断絶を生み出すことで、カウンター・ポジションに拡張する。ここにおいて、ある部分は何かの一部でありながら、同時に異質な何かの一部でもある。ストラザーンによると、フェミニズム研究は、自らの内部にこうした不釣合いな外部の多声性を再現している点にその特徴と切れ味がある。 私は、インドの市民運動も、この部分的つながりを体現している点にその切れ味があると考えた。例えば、人気作家のチェータン・バガトやムンバイ行政が「利益集団」としての「ミドルクラス」に訴えるのに対して、美化キャンペーンや選挙運動は普遍的で属性を問わない「市民」に訴える。さらにそれらの運動が展開していく実践において、活動家は、神や共同体との関係にもとづく「ヒンドゥー」としての奉仕の精神を参照することで、市民的で個人的な責任を果たそうとしている。このように、それぞれ異質なものが、一方が他方を完全に包摂することなく、異なるポジションを維持しているのである。 さらに、こうした運動を理解するためには、境界づけられた自律的な「個人(individual)」としてのみではなく、複数の関係性によって成り立っているムンバイの市民のあり方にも目を向ける必要がある。この点を探究するため、市民社会論とは一見断絶している人類学的な人格論を参照し、外部との関係から作られるインドの「分人(dividual)」概念を検討した。「インド的思考」を追求した民族社会学において、マッキム・マリオットは、食事や儀礼、会話における「サブスタンス=コード(substance-code)」のやり取りから作られる分人概念を提示した[Marriott 1976]。さらにA.K.ラーマーヌジャンは、サブスタンス=コードの動きを方向付け、分人を成り立たせる「文脈依存的(context-sensitive)」な規則と、そこから自由になることを目指す「文脈自由(context-free)」への運動の循環を提示した[Ramanujan 1989]。これは、「インド的思考」のなかに、外部の視点を取り込みながらポジションとカウンター・ポジションを作り出す動きがあることを示唆している。市民をめぐる運動は、異質なものが部分的につながって動くサイボーグのように、文脈依存と文脈自由の動きを示すイメージだと考えられる。 博士論文では、この複数のイメージのさまざまなヴァージョンを民族誌的に描いた。具体的には、1)新聞の美化キャンペーン「汚れとの戦い(Fight the Filth)」、2)行政と市民のパートナーシップ「先進的地域管理(ALM)」、3)市民候補者の選挙運動「ムンバイ227」という三つのプロジェクトを事例とし、各事例を横断しながら、市民社会と政治社会の緊張関係、腐敗と反腐敗の絡み合い、ウチとソトという空間認識の変容、個人と分人の相互作用を検討した。ムンバイの市民をめぐる運動は、市民社会と政治社会というポジションとカウンター・ポジションを行き来しながら、その狭間を概念化し、可視化しようとしていた。そうすることで、その狭間で運動を続けることが可能になっていた。 部分的つながりは、互いが互いの道具になることで、潜在的な能力を引き延ばしたり、新しく生み出すポジティブな可能性を有している。しかし、有機的なヒンドゥーの国を夢見るシヴ・セーナーへの奉仕がムスリムの虐殺につながることもあるように、分人化と部分的つながりは、権力と暴力の拡張に寄与する危険性も有している。この点を踏まえてムンバイの市民運動を振り返ると、その政治的な意義に新しい視点を加えることができるだろう。市民をめぐる運動は、奉仕といったヒンドゥー的価値や国民国家を中心としたナショナリズムに突き動かされながらも、そこには回収されることのない企業家的価値や個人のインテグリティを追求し、新たな市民像を作り上げていた。すなわち、政治社会にも市民社会にも完全に組み込まれることなく、狭間に留まることこそに、部分的なつながりとしての運動の政治性が見出せるのである。 * * * * * 以上でみてきたように、「西洋」の市民社会概念は、「インド」にそのまま輸入されたのではなかった。そうではなく、西洋とインドを比較しながら、市民社会という概念を批判的にとらえる研究者や活動家、現地の人々の実践の中で、カウンター・ポジションとしての政治社会との独自の関係が生まれ、そこからインドの市民社会が立ち現れていた。このように博士論文では、「西洋」の市民社会と「インド」の市民社会(参照した議論ではどちらも“civil society”という言葉が一般的に使われていた)の関係と動態について検討したが、その分析を日本の人類学者が日本語の「市民社会(shiminshakai)」という概念を用いて行っていることについては正面から論じることができなかった。もちろん、私が日本で生きてきた経験や現実を把握するための言語が、フィールドワークと記述における比較の前提として影響を与えていることは間違いない。しかし、いくつかの問いは残る。「日本」の市民社会を背景に、「西洋」の市民社会と「インド」の市民社会を比較することが、記述言語である「日本」の「市民社会(shiminshakai)」概念にどのような影響を与えうるのか?その営みから、どのように「人類」にとっての「市民社会(civil society)」――齟齬や誤解を含む翻訳語でしかありえないが――の理解を深めていけるのか?そして、こうした問題に取り組むためには、どのように書けばいいのだろうか?本研究の出発点であったポストコロニアル(サバルタン)研究や、ストラザーンの人類学を継承するならば、日本語で考え書くという問題についても考えていかなければならないだろう。 こうした問題意識の延長として、私は最近、ポストコロニアル研究と人類学の接合の地域的な違い(例えば南アジアとラテンアメリカ)を考慮したり、ポストコロニアル研究と科学技術論の接合領域から「思考不可能なもの」を捉えたうえで政治に介入しようとする人類学者の動きについて検討する作業をすすめている[De la Cadena 2017; 田口 2017]。言語が捉えられる現実をめぐる、そしてその現実を翻訳する可能性と不可能性をめぐる古いテーマは、近年の人類学において(例えば認識論ではなく存在論を強調するような領域においても)、ますます重要になっているように思われる。 差異をなくし等価にするための翻訳ではなく、「何かが欠けていることに気づく」ことを可能にするような翻訳[Clifford 1997: 39]を、どのようにより「よく」行うことができるのだろうか?日本語で行う人類学と翻訳の実践を続けるなかで、この問いは探求されていくだろう。そして、この(日本語で書き英語に翻訳された)記事からも、どこか別の文脈で、ずれと意外な関心のつながりが生まれていけばうれしく思う。 Between Civil Society and Political Society, Between the West and […]